中国天津市訪問記

この度 弊社ホームページ開設に当たり一言ご挨拶申し上げます。

弊社創業以来72年を迎え、私は2代目代表者として28年になります。私は元々機械いじりが好きで特に単車に興味を持ち、この道を選び又、父がオートレーサーであった関係で私もアマチュアレーサーになり死
をも恐れんライダーとして、東は名古屋、西は広島と遠征して参りましたが、一子が生まれた後、レース中に危ないと脳裏を走って以来、急に戦力を失い、これを機に修理稼業に専念、約15年間修理専門で暮らすが時代の流れに沿い、新車、中古車販売に徹し現在に至っております。そして、この度インターネットを通じて広く世界を知ることにより、老化しつつある脳を、再び開花する事を希望する私です。


中国天津市訪問記
1988.2.22(月)
JAL 747ジャンボ機 787便
機内アナウンスによる「ただ今北京国際空港に向かって降下します」の声で目を覚ます。秒速30m横風のアナウンスにジャンボ機はビクともしない。よく眠った。水割りWで3杯飲んでいた。雲を突き破っていきなり眼下に大陸が目に入った。見渡す限り田んぼ,畑か何しろ広大だ。しかもきれいに区画されている。所々に貯水池が見えるがすべて凍っている。とても寒そうだ。
その時、ハッと脳裏に不安が過ぎった。最近航空機事故が多発している。もしかしてと思う間もなく滑走路が見えてきた。命は一つとは思ったが祈りはしなかった。我が人生に悔いはなかったから。無事、着陸なんかつまらなかった。北京国際空港だと云うのに機数の少ない事、ローカル線並みだ。だが広さにおいてはアホ程バカデカイ。諸手続きの書類を機内で書き込んでいたが問題があった。一人旅でタバコを6カートンウィスキーを4本、はるかに違反だ。しかし俺はVIPで来たんだと、自我自尊し、そのまま税関へ見事フリーパスで通過 やったー。大阪−北京3時間20分
天津市からマイクロバスで要職の方が3人で出迎えを受ける。空港から天津市までの距離150Kmバスの時間で約3時間道中畑ばかりで何も見るものなし、お国柄軍隊とか紅兵が目にとまらないかと思ったがそれもダメ。しかし要所要所に警官が立っている。その時はドライバーもスピードを落として通過する。何処も同じか運ちゃんの気持ち。日も暮れかかる頃、天津市内に着く。一体何処で今日の宿はと思いきや解放軍の守衛がいる門の前で一言二言会話するやOKのサインで門は開かれ約3分ほど走った所に立派な迎賓館と看板のホテルに着き驚いた。門から迎賓館へ着くまでの道路が収容所へでも行くかのような気がした。一旦部屋に荷物を置き、6時30分きっかりに天津市の要人に出迎えられる。
天津市人民対外友好協会 秘書長 劉 氏
天津市公共交通公司 副経理 孔 氏
天津市公用局労巧処 所長 蘇 氏
天津市公共交通公司 副経理 対 氏
他2名
最初の計画は1時間程度ディスカッションの予定でしたが時間が無いとの事でディナーしながら語り合う事にした。約2時間30分のディナータイムで一応こコミニケ‐ションは生まれたと思うが俺にとっては、一抹の不安が残った。やはり お国柄の違いだろうか。この内容は記するのを止めることにした。

天津市 2日目 1988.2.23
夕べの宴会でコーリャン酒、ビール、ワイン、持参のウィスキーとチャンポンで飲んだわりには健やかな朝を迎えることが出来た。今日のスケジュールは午前中はバス専門の修理工場、午後は自動車車検場の視察となった。まず最初は修理工場の応接間に通され、複数の役員を紹介の後、約一時間、説明と質疑応答をした。中で技術官の要職で井さんが日本語を少し話せたので自動車の専門用語を使う時非常に助かった。その後工場見学をしたが部品の修理を各セクション毎に分けて分担制の修理加工をしていたのが合理的に見えた半面、人件費の安さが伺えた。テスター類は西ドイツ製が各所に設置されていたのには驚いた。しかし全体的に日本と比べると20−30年遅れている感じがした。一応全工場を見回ってから昼時間になり何を食べますかと聞かれたので天津料理と云ったのですが日本料理店(天津神戸レストラン)へ連れて行かれた。私は永い事日本食を食っているから他の食事をしたいといっても通じなかった。要するに彼等が食いたかったのであろう。店に入るとイラッシャイマセと可愛い女の子が着物姿で現れたのでびっくりした。彼女の顔は日本顔だし言葉も上手なので日本の何処から来たんと聞いたら私中国人と答えたのにはびっくりさせられた。
昼食の参加人数は全部で11人食事代は官費チョッと考えさせられた。その上に昼間からカンペーカンペー。
午後からは50km離れた天津新港にある自動車検査場を見たが日本製の検査機器が設置してあり、実状の車両と新型テスター類のバランスが合わない様な気がした。このテスターで30年以上前の車両では合格率は低いと思う。その事を説明しても中々解ってもらえなかつた。時間が経つにつれ腹の調子が悪くなりトイレを借りると言ったら皆がついてきた。さぁそれからが大変。小の方は日本式と変わらないが問題は大、囲いも仕切りも無し只、金隠しがづらーと並んでいるだけで、何もかも丸見え、とてもじゃないがでけへんわー、ホテルに帰るまで辛抱することに、その間、2時間半、本当に苦しい一日であった。

、天津市 3日目 (1988.02.24)
今日はタクシー会社の視察だった。例の如く例のメンバーが朝8時30分約束通り迎えに来てくれた。お国柄に似合わず時間厳守だ。何の目的か判らないがタクシーやバス会社 の視察は小生には無関係だが案内してくれた。御粗末な工場でまるで解体工場に見えた。しかし、ここの責任者は忠実だ。この工場の不満を思いっきり私にぶちまけてる。民主主義の思想を思う人物だ。私も同情し色々な意見が飛び交った。約3時間のディスカッションの後、中国での自動車知識のレベルを知ることが出来た。相当遅れている。指導者としての発言により、優越観を覚えた。昼食は天津自慢の肉まんあんまんの料理に辿りついたが私にはもう一つであった。午後からは研修生についての会議にがあったが、まず今までの工場視察の結果報告をした。欠点のみの報告に留まった。又、研修生の接見結果、役に立たない人物だったので、はっきりとその事を言わせてもらった。社会国家も忘れて談義したものだから皆ビックリした様子であった。内容は国が違えど自動車は同じ、思想は思想、技術は見習えと...
結果は全員が私を賞賛してくれた。
夜は友好協会会長のウェルカムパーティ、美人通訳により私の言葉を正式に伝えくれたのが、とても好感をもてた。祝宴の前に迎賓室で公式な形で会談ををしたのがとても印象に残った。まるで到小平と中曽根のテレビで見た会見と同じ雰囲気であった。祝宴に入ってからは高官ばかりではあるが精一杯ジョークを飛ばし皆を笑わせた。その都度コーリャン酒でカンペー、カンペーの連続だ。宴も終わり皆と握手してツァイチェンの言葉がでる時、時間はまだ9時半、朝まで相当時間があるネオンが恋しい...

天津市.北京市 (1988.02.25)
今日も爽快に目が覚めた。午前中は天津中心街を見学と言うことで久しぶりの自由行動だ。町に出てみると朝10時だと言うのに繁華街はもう道路いっぱいの人込みだ。木曜日だというのになんでか、聞いてみると人口が多いので休日をふりわけているそうだ。みやげものもそろそろ買わないといけないので、習字道具の店え案内してもらった。店の中はほこりだらけで汚らしく安物ばかりにみえたのでもっと高価な品物はないのかと聞くと迷路をとおり奥へ案内してくれた。中国では値の高い品物は全部倉庫に
しまっておくのだそうな。事務所で待っていると、なるほど値打ちのありそうな品物が出てきた。色々品定めと同時に値切ることも忘れず、折り合いがついて買い終えた。
昼食は四川料理店へ行くと、すでに公共交通公司の方と友好協会の面々が見えていた。今日でお別れとの事で時間を割いてくれたそうです。各人から手みやげとして、お茶、ウーロン茶、天津栗、そして世界的に有名だと言う泥人形までくれた。又、その人形の制作者と言う人が来られて、色々と説明をしてもらい有名な人と判り非常に感激した。写真嫌いの私もこれは一枚撮っておこうと思った。それから好きな四川料理に舌づつみをーーーーとてもおいしかった。日本ではこんな味の料理はまず無いと思った。又、例のごとくカンペーの続く事2時間かがりで食事を終えた。いよいよお別れに際し一人一人に御礼を言い、ポンユーから今度会うときはラオポンですね、と言われながら天津をあとにした。一路北京まで123kmの距離はさほど長くは感じなかった。北京市に着くとラッシュ時と重なり車と自転車の混雑ぶり、そして、連結バスも超満員バスの停留所には300共500人とも判らないほど並んでいた。天安門広場に出た。何と広いところだろ。よく、テレビで見るが、とにかく広い。大陸性の特徴だろう。この周辺には行政府、民政府、そして故宮博物館があった。今日の宿泊は北葦飯店と書いた二流のホテルだ。しかし、食堂は広くてきれいな所で北京料理もうまかった。部屋に一人になった時、ふと、天津市のトップの方々に貴国の車両行政がまずいとか、縁故、ひいき、の行政はまずさとか、色々と批判的な言葉を並べた事にちょっと後悔した。しかし、正しい事は正しい自動車は世界共通のものやから、まあ、悪うおもわんでくれや。
追伸 私一人に3人の付き人そしてマイクロバスを利用しての行動だ。日本では考えられへんわ。

北京 5日目 (1988.02.26)
最終日の今日は観光だ。私の見たい所はと聞かれ、まず天安門、故宮博物館、パンダ、それにおいしい料理と注文した。まず天安門に行った。昨日も云ったようにバカでかい建物、広場、歩いてみてなおさら感じた。まさに、世界一といわれるほどのスケールである。天安門をくぐり抜けてどんどん奥へ行くと幾重にも門があり3番目の門で故宮博物館になっていた。色々な品物があったが台湾にある博物館の品物と比較すると、こちらは大分見劣りがする。蒋介石が台湾に逃げる時、米軍の協力で持っていった通り、ほとんどこちらには残っていないそうだ。しかし、建物はすばらしかった。展示物の写真を撮ってもいいかと聞くと特別に許可がおりた。一応全部見終えた時には足がつってくるぐらい痛かった。相当歩いたものだ。次は歴史博物館へと足を運んだ。ここは、石器時代から明、清時代までの故物品が展示されていたがあまり興味がなかった。昼食後北京で一番の繁華街へと繰り出した。ついでに付き人に土産物をそれぞれに買ってさしあげた。それから北京動物園へ行きパンダを始めて見た。3頭いたが手入れが悪いのか毛色が汚れていた。それよりもレッサーパンダ可愛い顔をしていたのが印象に残った。園内を一回りした時には、とっぷり日が暮れていた。今日の夜は、お別れパーティだから私が接待すると言うことで早速ホテルに着き、シャワーを浴びた。大好きなハレンタイン17年を持ち込んで陸さん、曹さん、迂さん、それにドライバー、皆喜んでカンペーカンペーの連続だ。みるみるうちに一本がカラになってしまった。私は酔う程に日本語、英語、中国語知っている限りの言葉をゴッチャに話すから皆大笑い楽しいサンクスイヴになった。時計を見ると9時を回っている。そろそろこの辺でお開きと言うことでエンドグラスでカンペー。相当酔っていたが部屋に入り再度シャワー室へ。そして、くつろいでいると又皆が入って来て今から夜の天安門を見に行かないかとのことでこれは珍しいと思い早速出かけた。なるほど街灯がきれいについて人影もなくとても美しく見えた。昼の人込みの天安門と又違った味の光景に見とれてつい写真をバシバシと撮った。陸さんは相当酔っているらしく、
おもしろい事をペラペラ喋っている、皆笑わせていた。私にはさっぱりチンプンカンプン。一巡してからホテルに着いたが私の部屋に来てなかなか帰ろうとしない。まあ今日は最後の日でもあり、いいかと思い、皆と付き合った。
談義があっと言う間に過ぎ時計は2時を指していた。そろそろこの辺で....
これからトランクの整理だ。重量も相当になり機に乗せてもらえるか心配に..

北京 6日目 (1988.02.27)
今朝はとても寒かった。部屋のヒーターが故障でそこえもってきて寝相が悪いので目を覚ますとシーツ一枚で寝ていた為、鼻はつまるし、声はかすれるし、最後の北京で風邪を引いたかなと思った。時計は6時45分を指していた。
今日は毛沢東記念会館の見物だが午前中は休館とのことで人民会堂へ変更し中に入ると中国らしく、まるでドームの様に感じた。一階から三階まで案内してもらったが出てきた時は汗びっしょりだった。その後空港に向かい機上の人となる。