アマチェ日系人収容所
スタート後、程なくして雨が降り出しました。 最初は霧雨程度でしたが、 徐々に雨粒も大きくなり、本格的に振るのではないかと思い始めたころ、 いきなり雨が止みました。
しかし、スタート時には13℃あった気温も、 昼ごろには5℃と、どんどん下がり、 寛平さんも寒さに耐えながら走っていました。 体を冷やさないようにと、暖かい飲み物を用意するため、 何気なくサポートカーを止めた所が、 アマチェ日系人収容所後でした。
ここでは、実際に寛平さんが見た、 アマチェ収容所の記念碑に書かれていたものを 翻訳しましたので掲載します。
【グラナダ収容所(アマチェ日系人収容所)】
第二次世界大戦が始まって一ヶ月、アメリカ政府は11万人の在米日系人に収容所へ の一斉移転を通達した。政府の通達は世界大戦が始まると同時に急速に広がった国民 の世界情勢への不安、日系人への差別が反映されたものだった。
ただ収容された人々の2/3は日系ながらもれっきとしたアメリカ国民であり、その うちの一人として、スパイや機密行為を実際に行っているものはいなかった。
収容された日系人はトイレ、シャワーを浴びるために朝から行列を作り、収容以前の 職業に関わらず、農業、病院勤務など施設内の限られた仕事を、以前の収入とは比べ ものにならない程の安い賃金で働いた。そしてその子供たちはキャンプ内に作られた 学校に通った。一家族が6人の家庭は約6メートル×7メートルのバラックを与えら れ、一つの電球の下、バラック内に水道もトイレもない生活を強いられた。
1942年8月から1945年10月にかけて1万人以上の日系人が鉄条網に囲まれ たこのグラナダ収容所、通称アマチェ収容所に住んでいた。当時、アマチェ収容所は コロラド州の中でも10番目に大きいコミュニティーであった。
※動画クリップ中に、こちらの収容所に11万人収容されていたという 寛平さんのコメントがありましたが、
英語の読めないぶーやんと寛平さんなので、勘違いしてしまいました。 実際に書かれているのは、上記に記されている人数です。
※上記の翻訳は、あくまでも記念碑に書かれていたものを翻訳したものなので、 同行スタッフは史実を確認していません。
その点はご了承下さい。
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